私と今

元JW2世が過去を振り返りつつぼやくだけ

JWを抜けてからと境界性人格障害

なんか、急にアクセス増えてて驚きです。

そして放置から久々に。

 

JWを抜けてからのお話です。

まあ、こっからはJWは関係なくなります。

冒頭で私の母が境界性人格障害であると書きましたが、ほぼそれに振り回された思春期です。

 

中学に入ってから父が自営業者となり、自宅を仕事場と兼任し、DTPデザイナーである母の力を頼りました。

母からすれば全てが不本意だったんだと思います。四六時中、旦那と一緒で家は事務所。

息抜きに始めたであろう洋裁家の祖母を使ったハンドメイドバッグのデザインと作成とネット販売。このネット販売も雑誌に載るほどの規模になりました。

オンもオフもない環境。

子供はというと勉強そっちのけでネットにのめり込んでいる。

正直なところ、鬱病になっても仕方がない環境だったんだろうなと大人になった今はわかります。

 

ある日突然、父に母が鬱病になったと言われました。でも私はピンとはきませんでした。

かれこれ10年以上前のこと、鬱病という単語が世間で出回って浸透しだしたころではないでしょうか。

鬱病というものがなんなのか、母が一体どんな病気でどんな薬を飲んでなぜ毎日寝てばかりなのか父は一切説明してくれませんでした。ただ「お前がネットをしている姿、勉強以外のことをしている姿を見ているのがストレス」と私が病原体のような扱いをされ、隙を見てネットをしようものなら「お前は思いやりがない」と言われました。

この辺りでもう、思いやりってなんなのかそもそも一体家で何が起こってるのか理解出来ず混乱しながら生活しか出来ませんでした。

母は次第にJWの集会にも行かなくなり家で突然ブチギレて暴れ倒す爆弾みたいな扱いになっていき、母本人も爆弾扱いにイラつきの無限地獄に陥りました。

私はというと家にいても誰も話をしてくれないし聞いてくれない、ネットの世界と漫画の世界にどっぷりとハマり、塾に通っていたのでテストは常に平均ちょい上ぐらいでしたが、家でやったり纏める提出物が皆無。成績も2と3の数字が乱舞する有様でした。

家事手伝いもほぼ一切しませんでした。たまに料理を手伝うぐらいはしましたがら反抗期だったからかよくわかりませんが、手を出すと負けというか、学校も塾も行っているのになぜそこまでしなきゃいけないんだというクソガキ心境でした。それもまた余計にストレスだったんでしょうね。

でも、自分の思った通りに私が動かない生活しないからストレスだったということでしょ?となんとなく昔から思っています。ろくに話しも聞かない話してもくれない、そんな親に対して信頼も信用することは難しいと思います。現に母は自分の思ったとおりに周りが動いてくれないといった内容の愚痴をこぼしていました。

 

中学から高校に上がってから、それは余計に酷くなりました。その頃には母の人格障害が発覚した、さらに母の状態は悪化というか激化し、ほぼ毎日家を飛び出して自殺未遂を起こしてパトカーで帰ってきたり、薬を大量に飲んで胃洗浄の為に救急車が毎夜家に来たり。

それが嫌で、家にいる時間をなるべく減らす為友達と遊んだりバイトをしたりしていました。

この時の友人が所謂ヤンチャ系ではなく本当、オタク系の落ち着いた子達だったのは救いだったと思います。男しかいなかったけど。

はっきり言って、そんな状態で精神は安定せず、徐々に学校に行けなくなりました。恐らく軽度のパニック障害を発症していたんだと思います。学校が近づくにつれ胸が苦しく、席に着いてクラスメイトがざわつき先生の声が聞こえる環境が無性にイライラして呼吸が浅く叫び声をあげたくなる衝動に駆られ続け、一限程度の時間も席に座っていられず、保健室に行って先生と話して泣くを繰り返していました。

親に相談しても嘘吐きで興味を自分に持たせたいだけ仮病を使うな学校に行けだけを繰り返され、結果、朝は学校のある時間は鞄に着替えを詰め込んで制服を着て学校とは反対方向にある繁華街で遊び、午後になったら反対方向の電車に乗って学校に行き友達と話してからバイトに行く。そんな生活をしていました。

結果的に単位ギリッギリ。

2年から3年に上がる時に体育の単位を落とし、温情として一週間放課後でダラダラした補修をして進級。

本来はバイト禁止でしたが、保健室の先生に事情を話してスクールカウンセラーの方から私のバイトを黙認してもらうようにお願いをしました。家から逃げたくて逃げたくて、唯一落ち着ける場所だから取り上げないでくれと。

 

母は母で自分が爆弾扱いされていることが不満で、家族からの当たり前の心配りが自分のご機嫌伺いをしていると疑心暗鬼で全部に当たり散らしていました。

休日のお昼に父が仕事で私と母だけで家に適当に食べられるものが無かったので、チャリを走らせてパン屋で適当なパンをいくつか買って帰り一緒に食べようと差し出すと

「私のご機嫌取りをするな!!!!」

それだけのことに激怒してパンを叩き潰して私に投げつけふて寝。そのパンから飛び出た中身が電気の傘に飛んでへばり付いたのを覚えています。

激昂する日も多かったですが穏やかな日もあり、その時は普通に話したりすることもありましたが、まあ、話している間に面倒くさくなるから無視がよくありましたが、まだブチ切れられるよりマシでした。

 

そんな日の中、私に初めて彼氏が出来ました。その日は母が落ち着いており、彼氏ができたことを話すとブチ切れ激昂。

「淫乱娘!!ドーナツ女!!!」

そんな感じの罵倒プラス罵倒メールを一晩かけて送り続けられましたが、一晩経つと落ち着き放置の方向に舵がきられました。

私は逃げるようにバイトにプラスして夜は彼氏の家に入り浸り、22時に帰宅して直ぐに寝る、土日はそれが昼間からといった生活になりました。

父は父で揉める原因が少なくなるならとその生活を黙認。全員が母に振り回されることに疲れ切って、ブチ切れ地雷が一つでも減るならばそれで良いとなっていました。

 

ほぼ毎日自殺騒ぎに怒鳴り声、車で1時間程かかる親戚と喧嘩して大暴れしたりしている家庭環境でよく暮らしてたなと今では思います。

軽度パニック障害らしい症状もありましたが、高校に入ってからバイトや彼氏の家という家の外という逃げ場が無ければ恐らくもっと私の精神をやられていた気がします。あと、「どうでもいい、面倒くさい」が私の性格の根底なせいか無駄に関わったりすることをしなかったのも今思うと良かったのかもしれません。

 

高校終わり頃はこんな感じでしたが、高校を卒業して専門学校に上がってから母の調子が良くなってくる代償に私の幼少期を潰したJWを捨て始めました。

JWでした、転機は中学校です

一度書き出すとうわーっと出て来てしまいますね。自分のブログだから自由です。

 

きっかけは社会の授業

タイトル通り、私が抜けたのは中学校の時でした。正確には小学校高学年ぐらいでしょうか。ずっとなぜ自分は周りの子供と同じことが出来ないのかして貰えないのかという不満が募り募っていました。そんな時に、社会の時間に憲法の授業が行われましたそこに「信仰の自由が全員にある」そんな当たり前なことを学び目から鱗が落ちました。強制的に学ばさせられている現状はおかしいんだ憲法違反なんだ!と光が射した気分でした。

JWは何故だか白か黒!0か100!といった極端なところがあります。わかりやすいのは排斥という制度です。喫煙は体を蝕む毒だから禁止というのがあり、タバコ一本吸おうものなら即排斥。婚前交渉をしたら淫行の罪、なんでしたら夫婦の離婚は浮気のみが認められるそれ以外は許されずそれでも離婚した場合、次に再婚したら淫行で排斥です。

この排斥というのは組織内で【対象者を死者と同じ扱いをする】ことであり、街中でばったり会って挨拶の一つもしてはなりません。家族ですら存在を無視しなければならないのです。だって死んでいるのも当然ですから。

エホバの証人エホバの証人であればいつか来るハルマゲドンで救われ、エホバの証人の死者は楽園で復活し若い体と清い心で不老不死の永遠の命を手に入れるというのがお題目です。なのでその楽園への最短切符を自ら放棄したのなら死ぬんだよね?ってことで、死んだ人扱いの無視が始まります。愛をもち隣人に寄り添えとかいう協議はどこいったんだという扱いです。

話を戻しますと、憲法という後ろ盾を得て私は母に「お母さんが私に行なっているJWの強要は憲法違反だ!」と教科書片手に詰め寄りました。ですが「あんたはサタンが作った法律とエホバの言葉どっちを信じるんだ!」と世の中の法律憲法はサタンが作った悪魔の物だから関係ないと怒られる平手が飛んできました。ここら辺で私は一度諦めました。

 

決定打、母に首を絞められる

中学校に上がるとマンション住まいから一軒家に変わりJWの地域も変わりました。父が会社を辞めてDTP事務所を構えて家に戻ってきました。といっても引き継ぎなどがあり最初の一年程は単身赴任のままでしたが以前より父が家にいる時間はとても多く、やっと家に味方が出来たことが嬉しかったです。

そんな中です、ある日曜日の朝、集会に行く前に雑誌の読み合わせをしている最中に私はもう行きたくない。小学校の時のように嫌がらせをされたり当然のことができない環境をまた作るのが嫌だと叫びました。

しかし母が認めるわけもなく、平手だなんだと飛んできました。私も力がついてきて自分の身は守れましたが、人生で初めて私は走馬灯を見ました。

「ハルマゲドンで死んで我が子が復活しないならまだエホバの証人である今私の手で殺してやる!!!今死んだら楽園で会えるやろ!!」

の叫び声をあげながら私の首を絞めてきました。

「あ、死ぬ」

と息は苦しいし目の前には凄い形相の母がいるしで混乱した私は

「いつもいつも暴力ばかり振るわれて嫌に決まってんだろうが!!」

叫んで突き飛ばしました。母は唖然とした顔をしてすぐに時計を見てから家を飛び出して行きました。この期に及んで集会に行ったのです。

二、三時間後に母が帰ってきたら私は確実に死ぬと思い、友人に電話して家に避難させてもらいました。皮肉にも寺の子だったので文字通り駆け込み寺をさせていただきました。

行く前に電話をして事情を話してから行きました。友人のお父さんと話をしました。さすがお坊さん、親身に話を聞いてくれて、泣く私を辛かったねと一言だけ言ってくれたのが救いでした。母から受けた仕打ちをきっとJWの人は

「サタンが貴方の心に取り付こうとしたからお母さんは愛の鞭を振るったのよ」

「あなたはお母さんに救われたの。ちょっとやり方が間違っただけ、許してあげなさい」

と言って母を擁護したことでしょう。でも友人のお父さんはただ辛かったねと言ってくれました。それがどれだけ嬉しい言葉だったかわかりません。父の連絡先を教えると、父に連絡をしてくれました。その日は一日友人の家に泊まり、家へと帰りました。

帰る前に父と友人のお父さんと少し話をしてました。宗教は難しい問題であること、強制すべきではないこと、それに命を奪うような真似はおかしいことを言っていたと聞きました。当然のことです。父も分かっていました。でもこれを母は分からなかったのです。

家に帰り、久しぶりに家族会議が開かれました。父はもうこんなことをするほどのものかと母は我が子を守ったのだと主張し続けて私はもう嫌だと言い続け、激昂した母が手を出そうとしたら父が止めるという感じの家族会議です。

最終着地点として「集会には行かなくていい、ただし週に一回、幼馴染であるJWの姉妹が来て研究をするそれだけでいい、それでもダメなら辞めていい」という折半案で落ち着きました。

 

週一の研究も一月で限界

火曜日の集会の日に集会のために準備をしなくていいという初めての経験をした時はドキドキとソワソワが同時に襲って来ました。

本当に行かなくていいのか、母の顔色を見てドキドキしながらテレビを見ていました。背中には母からの何か言いたげなきつい視線が突き刺さっていましたが、乱暴にドアを閉めて出て行きました。初めて火曜日の夜にテレビが見れました。自由にテレビが見れたのがどれだけ嬉しかったか。金曜日には初めてMステを見れたのです。やっと開放感を感じることができました。そして約束の週一の研究と最初は多少話を聞いていましたが、一月経った後わざわざ来てくれていた姉妹に私は切り出しました

「もう私にとってJWは苦痛でしかないから辞めたい」

すると姉妹はわんわんと大泣きし始め

「貴方は恵まれてる!好きなアニメが見れて漫画だって先に読める!私はドラえもんすら禁止にされて育った!なのに!!」

知らんがなそんなもん。なら貴方も辞めたら良いやん。としか思えず泣き止むのを待ちました。

そして最後にありがとうともう私は戻らないと言ってその日が最後となりました。

 

 

これで私のJWは終わりましたが、母との話はまだまだ続く。

前述した母の境界例人格障害がこの時期に発覚した家庭は完全に崩壊しました。

JWでした、叱られるのが苦手です

恐らくJW2世の方は怒られること、叱られることに対して恐怖感があるのではと思います。

 

理由は下記記事が大元です

JWでした、鞭は痛い - 私と今とたまに母

 

叱られる・怒られる=武器を使った体罰が私達二世での共通認識かと思います。最近の世代では体罰が減っているとも聞きますが、まだ1990年代始めの頃は体罰推奨でした。なんでしたら「愛を持った鞭は痛くない!」とか組織自体が宣言してました。お前は打たれてないのによく言うわ痛いに決まってんだろ。とまぁ、そんなことを思いながら集会で大人しーくしてました。

 

これは私の性格の問題もありますが怒られたら必死に自分が悪くないことを探します。いかに殴られないかいかに叱られないかということに必死になります。だって殴られるんですから必死です。

言い訳してさらに怒られるを繰り返したり口八丁で矛先を変えたりしてそれだけで頭がいっぱいになります。そんなことしたって余計殴られるんですから意味ないんですが少しでも殴られることを減らしたいという防衛本能だと思います。

たとえ自分が悪くても叱ってくれた人とは自然と距離を置いてしまいます。今回はちょっときつく言われただけだとしても次は殴られるかもしれない次は怒鳴られて罵倒されるかもしれない。と完全に馬鹿な自衛本能が働きます。

私には怒られるという行為自体が暴力に感じてしまう、そういう刷り込みがどうしてもあり、いつ手が飛んでこられても良いように身構えます。母は私の年齢が上がってからはお尻を打つことをやめ、次は顔面平手打ちに変わりました。反射神経が研ぎ澄まされ、平手打ちガードの速さはなかなかだったと思います。両手分ガードした時の爽快感としてやったり感に悔しそうに余計に怒り狂う母の顔に優越感を抱いたことを覚えています。

 

集会が優先子供は二の次

小さい時、押入れの中で折り畳まれた布団の中に入って寝るのが好きでした。小学校一年生のある日曜日の朝に押入れに潜り込んで寝ているといつのまにか集会に行く時間になっていて母が私を探していました。その時、このまま寝ていたら怒られる、でも行きたくない。私は押入れの中で息を殺して母の怒声と足音を聞き、布団と押入れの隙間から様子を伺いました。

一度は押入れを覗きましたが怒りのあまり見回しただけで凄い勢いで押入れを締めてその場から離れました。今出たら間違いなく尻百叩きだと確信して余計に出れず震えていたら

「勝手にしろ!ハルマゲドンで滅されろ!!」

(要約:集会に行かないなら死ね!!!!)

と家中に聞こえる声で叫びものすごい音を立てて私を置き去りにして集会に行きました。押入れの中からそっとでてガタガタ震えながらリビングで一人泣いてましたが結局泣き疲れてソファで寝てしまいました。

ハルマゲドンとはJWで滅びの日とされ、エホバの証人以外全員死ぬというもので、ハルマゲドンで滅されろはど直球ストレートで死んでしまえということです。

怒り狂うと小学校一年生に対してこの調子なのでこの日帰宅した母から速攻でビンタで叩き起こされ「あんたがこなかったからみんなに心配されて私が恥をかいた!」の怒声とともに婦人ベルトによる尻百叩きの刑に処され泣きすぎて喉がガラガラになり、どれだけごめんなさいと言っても一日中無視で自分の部屋に閉じこもりました。

 

子供を犠牲にするほど褒められる

この日母が他の人にどう言い訳したかはしりません。お父さんとどうしても遊びたがったからとかお婆ちゃんの家に居るとかそんなことを言ったのでしょう。

基本的にJWは子供が犠牲になって居る姿を見ると褒めちぎります。風邪ひいて顔が真っ赤になっているのに集会に来たり奉仕に行くと普通の人なら「何してんだ!家で寝かせろ!!」でしょうがJWではこんな感じです。

「熱が出ているのに集会に来るのは偉い子!」

「エホバもきっと褒めてくれるわ!」

「こんなに霊的に頑張る子にはエホバがご褒美をくださるわ!」

てな具合です。親も我が子をサタンに売らない為に隙なく頑張る良き親と褒められます。さすがに吐いて出しての上から下から状態とかだと無理させられることはないですが多少熱出てるぐらいなら引きずられていきます。

学校でも多少の熱だと行けと言われたりするので、私は休みたがりになりました。大人になった今も休みたがりで、どうにもダメです。

 

集団生活に強いストレス

そもそも学校では多少なり嫌がらせや距離を置かれたり、集会では褒められる行動をしなければ家では殴られる。集団行動の中に入れられ続け、私は集団行動が嫌いです。

会社にも通っていますが毎日同じ場所に行き、同じことをし続ける。これはきっと当たり前にできて当たり前のことですが、怒られるリスクが高い場面でいかに怒られないかいかに叱られないかに神経を使う為、かなり疲れます。

少しでも怒られるとパニックに陥ります。しかしこれはきっと他の人から見ると「甘え」なのです。でも根っこには執拗な体罰モラルハラスメントからの怯えです。しかしこれを誰かに主張して譲歩してほしいとは言えません。

 

怒られること、叱られることでパニックを起こす人は居ます。精神が弱いからという人もいるでしょう、でも、私のように体罰モラハラからの恐怖に怯え続けている人もいます。これを取り除くにはどうしたらいいのかぼんやりと考える日々が続いています。

JWでした、良いこともあったんでは?

見てる人なんていないと思って放置してたら100人程アクセス頂いてたみたいでありがとうございます。

 

2回ほどJWへの恨み辛みをつらつらっと書きましたが良いところも書いておこうと思います。

 

1.国語の成績は良い

JWではものみの塔という設問がついた雑誌を一月かけて一冊読んでその設問にみんなで答えましょう。といったことがあります。

この社会はいかに悪魔サタンに乗っ取られているか、だとか、エホバはめっちゃ素晴らしいんだ!とか、死んだら楽園に行って永遠の命が手に入るよやったね!的なそんな内容がつらつら書いている雑誌です。内容はあんまり覚えてませんが、まぁ、どれみてもこんな感じです。

漢字の振り仮名なんてあるわけない。なんなら大人向けの文面です。

でも読めないと答えられないので、母親と二人で音読しました。読めない漢字は教えてもらいつつ、といった感じです。

おかげさまで小学校一年生に上がる前から漢字の読みは異常に早かったです。さらに、設問に対する答えの文章を見つけるという国語のテストぐらいでしかやらないようなことを常やってるので読むのも早く、読解力もあり、国語のテストは常に満点。漢字の書き取りは………置いておきましょう。

さらに設問に対して聖書から答えを探したりして辞書引きの練習もバッチリです。ここまでして母からは

「読書が足りない!!だからあんたは馬鹿なんだ!!!」

と言われてました。他の同世代の子供より文章は読んでたと思いますが、私が読んでいたのは本ではなかったようです。

 

2.なんか小話が書ける特技

JWには研究生→伝道者→バプテスマを受けた正式なJWといった階級的なもんがあります。

研究生は伝道者以上の階級の人からJWに対しての教えを教えてもらえることと集会で発言ができることが出来ます。

伝道者になると研究生を受け持つことができ、さらに金曜日の集会で小話を作る役割を割り振られます。この伝道者から受け持つことが出来る小話ですが、ほんと小話なんです。

週替りで担当者が変わり掲示板にリストが張り出されます。担当者には待ち時間10分程が渡され、集会の会長=長老からお題を渡されます。

一人で壇上に立って話すもよし、誰かにお願いしてお芝居を一緒にしてもらうといった感じです。

大体、壇上で立って話すのは男性で女性は基本誰かとコンビを組んで雑誌程度の小道具を使って「こんな風に奉仕活動をして信者を増やしましょう!」的な話の10分小話を行います。

この小話ですが、お題に基づいて設定から台詞や展開まで全て担当者が書き上げます。基本的にセリフを交互に並べた台本ですね。

自分は奉仕に来た人だとか、知り合いとかで相手はお題について悩んでいるとか、そんな感じの設定ばかりでしたが、10分程といえど、この尺に収めて話を書くのは楽しかったです。

これのおかげで【話を書く】という謎特技が身につき、バリバリ現役オタクな私は二次創作に役立っています。人気があるとかは置いておきます。あとECの仕事をしているのですが商品紹介文章書くのに重宝しています。

 

3.頭の回転は早い

文章を読むこと書くこと、内容を聞くこと、集中力を持たせることに対しては身につくので、子供の頭を働かせることにはうってつけだと思います。そこだけ。

ほんとそこだけ。

大人になっても頭の回転は速いと褒められることは多いです。頭が良いとは言われません、勉強出来なかったので頭の回転が早い馬鹿ってやつですね。それで良いですww

 

以上です

国語の面以外の恩恵はわたしにはありませんでしたwww

人によっては勉強をすることが苦でないとかそういう人も居るとは思いますが、私は学校も勉強、塾も勉強、JWも勉強で勉強が苦行でした。私に勉強をするという下地は出来ませんでした。

間違ったら手が出る、集中できなかったら手が出てくる、分からなければ馬鹿にされるそら嫌な苦行としかインプットされませんって感じです。

でも振り返ると本を読むのは大切なんだなということですね。

 

だからといってJWで国語力を身につける必要は一切ないですが。

JWでした、コミュニケーション下手な子供になりました

私はとにかくコミュニケーションが下手くそです。特に人のことを考えて話すことが苦手です。我が強い性格をしています。その原因はやはり、JWと母との関わりでした。

 

親子で依存になる環境

私の父は単身赴任で二週間に一回ぐらい帰ってくるかどうかで、基本は母との二人暮らしでした。

所謂ワンオペ育児で周りに知り合いもいなかった母はJWに入ったのだと思います。

これは後から、それこそ私が中学生の時に発覚したのですが、母は境界性人格障害でした。そのため、基本的に感情の起伏が激しく、機嫌の良いときは構ってもらえたり、一緒に遊んでくれたりとおそらく普通の母親でした。

ですが、怒るとくるりと掌が返り、叱るというより罵倒と鞭と無視が繰り返されました。ちゃんとした正当な躾のお叱りもありましたけど、これ確実に八つ当たりだよなってことも多かったです。一人っ子だった上に母一人子一人の生活でお互い感情の逃げ場が無く、親子で自然と依存の形となっていたと今思います。

特に、幼少期の私は幼稚園や保育園には行っておらず、JWの会衆内に同年代の子供は居ましたが、集会の日か奉仕の日の短時間少し話す程度で同年代の子供同士での触れ合いが少なく、親子の時間が必然と多かったと思います。

 

鬱陶しい子供のねえねえあのね!

子供の私では話し相手にもなれず、とにかく話を聞いて話をしたい子供の「ねえ!お母さん!ねえ!ねえ!あのね!あのね!」はめちゃくちゃキツかったのでは無いかなと思います。

母は私からの「あのねあのね」攻撃をそっくりそのまま口調も似せて真似すると私が嫌がって話しかけなくなると気付いてからは私が話しかけると真似して撃退もしくは話しかけられても無視をする、機嫌が良ければ相手をするといった感じで過ごしていました。日常の会話は母の機嫌がいい時で、普通の時は無視、機嫌が悪いと怒るだったので、母とのコミュニケーションは人と話すのではなく会話はご機嫌伺いでした。

 

所謂放置子

話したくても遊んで欲しくてもあんまり遊んでもらえないので私は近所の大きな公園に一人で行って、そこで遊んでいる見ず知らずの子供に声をかけて一緒に遊ぶを繰り返していましたが、今思えば他所の親御さんからしたら放置子が自分の子供に絡んでるという厄介な現状だったと思います。その場で遊び友達になった子供はすぐに親に連れられて帰ってました。それを無邪気にまたねと言って見送ってましたが放置子に懐かれる前にさっさと帰るのは当たり前ですね。

幼少期の私は外で見知らぬ子供と遊んで(少しだけ)、たまにJWの子供と遊んで、奉仕活動に連れていかれて集会に連れていかれるという生活でした。基本的に関わる他人はJWの関係者ばかりのため大人ばかりです。優しい人達だったので子供の相手をよくしてくれましたが、大人とのやりとりしかしていなかったせいか、幼稚園保育園辺りで培う子供同士のコミュニケーションが下手くそで小学校に上がった時に苦労しました。

物の考えや感じ方がJW基準であったため、変に大人しいというかどこか冷めてるところがあり、周りに大人ばかりだったので誰も話を自分に合わせてくれないし自分も話を合わせることが分からず、子供同士でどうすれば良いのかちんぷんかんぷんでした。

 

子供社会内での異物

コミュ下手に加え周りの子供と溝が出来る要因がありした。JWでは誕生日のお祝いや七夕、クリスマス、お正月、こどもの日から母の日父の日、バレンタインにホワイトデーなどありとあらゆる世間の行事を禁止していました。

そのため、誕生日やクリスマスに何のプレゼンを貰ったとか、図工の時間に七夕かざりや短冊を作ろうとか、そういったものに全部参加が出来ず、周りの同級生に「エホバの証人だから」なんて言おうものなら即変な奴扱いされるため、とにかく「お母さんからダメって言われてる」といっていましたが、結局浮きますよね。

しかもこの宗教の方針について、親が先生に口添えしてくれる訳じゃありません。【子供自ら先生に宗教上の理由により参加が出来ないと証言し先生に教えを広めなければならない】という決まりがありました。

一年生になりたての時はJWと一般的な感覚とは違うというのが分かってなかったので平気でしたが、流石に入学して時間が経って「あれ?今まで当たり前だったJWってもしかして変なの?」と気がつき始め、先生に言うのが苦になり、どんどん周りに自分の事を隠しました。

しかし、どれだけ隠しても奉仕の日にスカート履いて綺麗目なお洋服を着て、一軒一軒家を歩いて回る姿を同級生に見られてそれが噂となり「あいつは変な奴だ!!」となりました。

見られていた事を知ってから母に虐められるから学区内の奉仕だけは勘弁してくれと頼み込んでなんとか認めてもらいましたが、後の祭りでした。

 

JWが根本にある浮いた存在

激しい虐めはありませんでしたが、同級生には完全に距離を置かれ陰口をたたかれ、無視もありました。私の一挙手一投足を笑われ、女子によくある小さな折り紙をした手紙も回し読みされたりちょっとした嫌がらせがあり、友達も居て楽しく遊ぶこともありましたが嫌な気分になることも多かったです。

個人的にきつかったのはたまたま同じ誕生日の同級生が居て、目の前で誕生日会の話で盛り上がって居た時は羨ましく、それを分かって居たのか変な宗教のせいで誕生日会ができない私をくすくすと笑って居ました。

 

私は変?

母に「私は変なのか?」と聞いたことがありました。私が望んでいた答えは変じゃないよでしたが母からの返答は

「お前がスカした態度をとって変な子みたいな態度をとってる。お前が普通のことをしてないだけだ。気持ち悪い」

でした。これは未だに根に持っています。クールぶって斜に構えた態度をわざと取って気持ちが悪いと幾度となく言われたことがあります。普通で居ない私が悪いと言われても今まで培ってきた普通の基準がずれているのだから普通がわからず、とにかく親公認で私は変で同級生から距離を置かれるのは当たり前の気持ちが悪い子供なんだと混乱し、親への不信感が増しました。

 

視聴コンテンツの制限

さらに子供同士のコミュニケーションを下手にして居たのが一部アニメの視聴禁止と流行りのテレビ番組が集会に被さって見れず、共通の話題を作ることができなかったことです。

争い事を禁止とした教義だったため、バトル要素のあるアニメは基本禁止でした。我が家では不思議の海のナディアスラムダンクドラゴンボールetc...が禁止されて、見ているのがバレたら鞭がすっ飛んできてお説教でした。……なぜかウルトラマンセーラームーンは許されてましたが……。一部家庭ではSF内容があるからとドラえもんも禁止というところもありました。

そんな母も私が小学校に上がってから、教義でいくらJW以外の人(=世の人)との関わりを積極的に持たないようにと言われても、そうもいかず、同級生から浮いて泣いて帰る子供に対して考えを変えたのか、それとも父が何か言ってくれたのかは分かりませんが、当時流行って居たミニ四駆やラジコン、ポケモンなどの玩具が解禁されていき、学年が上がってから禁止されて居たアニメももう検閲するのが面倒くさくなったのか全面解禁され、やっと話題についていくことができるようになりましたが、集会のせいでMステが見れず、流行りのアーティストを知らずに育ち、今現在同年代との懐メロ談義についていけませんww

 

 

そんな形で、育った私は無事コミュニケーション下手へと育ち、未だに人との会話に苦労して居ます。子供の娯楽などを規制したっていい事ありません。自分の機嫌で子供を構ったって良い子供になんてならないです。親の顔を伺う鬱陶しい子供になるだけです。

 

正直、自分の要領が悪いところや斜に構えたような性格が浮いていた原因だったとは思いますが、もし、JWじゃなくて、普通に誕生日をしてクリスマスを祝ってと普通の子供たちと同じ経験をしていたらどんな性格でどんな生活だったんだろう、もっと友達もいたのかなと考えてしまいます。

JWでした、鞭は痛い

成長して家を出て結婚してからふと昔のことを振り返るようになり、なんだか色々ともやがたまり出したものの家庭内のことって誰かに零す訳にもいかず、かと言って吐き出したいのでブログに記載してみることにしました。

 

私は元JW二世として育ちました。

母がJWだったため強制連行といった具合です。といっても中学2年の手前あたりで抜けたのでもう30になった今はかなり昔の話になります。それでも、物心ついた頃から中学2年までの宗教というのは今でも心に影を落としています。これがもし、自ら望んで入って合わなかったからと抜けたものなら「そんな時もあったな」になったでしょうが、そうではない苦痛の記憶ばかりです。

 

まず、JWというものはおそらくどの家庭にも一度は勧誘に来ているであろうエホバの証人という宗教団体です。

ググってもらったら速攻で情報出て来るので内容は割愛します。

 

この集団、外から信者と接するとイメージするようなカルト宗教信者みたいな頭がふっとんじゃってる人のような印象は受けない人が多いと思います。普通で落ち着いた優しい人達、そんな印象を受けると思います。教義の中に優しく温厚に柔和であれというものがあるのでその影響ですね。

外に対してはとても優しい良い人達ですが中に入るとかなり吹っ飛んでるところがあります。

 

週三回の集会開始時間が厳守でした。

その開始時間が19時からと社会人からすれば定時ダッシュどころじゃないと思います。

そのため定職にしっかりと就けなかったり、就けても待遇が上がらず低所得な人が多かったです。普通の収入がある人は自営業で自分の仕事をしっかりと管理できる方ぐらいではないでしょうか。

これは仕事だけでなく子供にも影響します。

私が住んでいた地域は荒れた中学校の地域で中学受験する子も多く、私もなんやかんやで塾に通っていました。

低学年の頃は公文式だったので早く問題を解いてしまえば早く帰れました。おかげで暗算早かったです。……昔はw

問題は高学年になって塾に行ってからでした。塾の終了時刻が集会開始時間だったのです。家から集会会場まで車で一時間。さてどうするかというの、塾早上がりでした。周りの子供からなぜ帰るのかと追求され、宗教だからと言えず有耶無耶にして少し距離を置かれたりとしていました。

さらにこの集会が一時間ほどあり、退屈な教義話を聞かされるだけです。たまに休憩時間的に歌を歌わされる時に立つだけです。

その間、私語禁止。隣の親に話しかけた瞬間親から雷が落ちます。なんなら足がつかない大人仕様の椅子で足を揺らすだけで怒られました。さらに寝ても怒られます。

神妙にお話を聞いてお話をメモ(二度と見返さない)それ以外をしたら怒られます。

片道徒歩45分かけて学校行って塾行って間髪入れずに集会行って……子供の体力的に限界でした。

興味もない、大人向けの話をただじっとして聞かされる。そんな時間を寝ずに聞いておけというのは難しいと思います。しかし寝たら怒られる。もう必死でした。

ここで寝たら家に帰った時、大目玉間違いなしでしたから。

 

そしてこの怒られるというのがお小言レベルなら良かったと思います。

ですが、私が子供の頃は教義として体罰を容認、推奨していました。過激な体罰で虐待死した子供が発生した事件があったことを知ったのは抜けてからのことでした。JWではそのことに触れませんでした。

ただ「愛を持って鞭で躾をすることが良い子にする近道だ」と繰り返していました。

体罰はおそらく私の世代とその前はみんな同じだったと思います。所謂お尻ペンペンです。しかしそんな可愛いもんではなくゴムホースや女性用の皮ベルトや電気コード、ハンガーなど痛みを伴う物でパンツもズボンもスカートも履いていない生尻を力一杯叩くものでした。

さらに、生尻になるのを子供から自発的にさせることが重要でした。叩かれるのが嫌で逃げようものなら叩かれる回数が増えに増え、10秒経つごとに10発、100発ぐらいまで増え、叩かれる方もですが叩いていた母も武器を持っていると言えど手が痛かったと思います。

 

鬼の形相で待ち構える母の膝の上にうつ伏せで尻を自分で丸出しにして横たわり、比喩ではなく本当に喉が痛くなるほど泣き叫びながら打たれ続けます。

個人的に痛かった順は

1.掃除機の電気コード

2.ガス用のゴムホース

3.水道用のゴムホース

4.婦人用の細い革ベルト

5.プラハンガー

6.素手

でした。なので子供の私はゴムホース類と革ベルト隠しましたよね。そしてそれがバレてさらに打たれました。肉体的な痛みもそうですが、自ら尻を出し叩かれに行くというのは精神的にもそれは虐待であったと思います。

家庭によっては中高生になっても打たれていたという人もいるようです。私の場合は武器を使う鞭は小学校一年生ぐらいで終わりました。その理由が、一人で人形を使って母の真似をして遊んでいた私を母が見た時、私はホースやベルトを使って人形に鞭をして打っていたのだそうです。母は子供に対して日頃、自分がしている光景を第三者視点で見て怖かったんだそうです。これは子供に悪影響だと。そうは言っても、武器から素手に変わったかビンタになったかぐらいなものでしたが、大人が武器を持って怒った顔で待ち構えている光景がなくなっただけでも安心でした。

 

だからといって、小さな頃から怒られないように鞭で打たれないように過ごしていた子供が明るく子供らしい子供になんてなるわけがなく、しっかり顔色を伺う子供に育っていました。おかげで、母は私が心底面倒だったかと思います。なので母と私の相性は最低です。母本人はそう思ってないようですが。そこはまた改めてです。

 

最初はベースの部分だけまた次適当に。