私と今

元JW2世が過去を振り返りつつぼやくだけ

JWを抜けてからと境界性人格障害

なんか、急にアクセス増えてて驚きです。

そして放置から久々に。

 

JWを抜けてからのお話です。

まあ、こっからはJWは関係なくなります。

冒頭で私の母が境界性人格障害であると書きましたが、ほぼそれに振り回された思春期です。

 

中学に入ってから父が自営業者となり、自宅を仕事場と兼任し、DTPデザイナーである母の力を頼りました。

母からすれば全てが不本意だったんだと思います。四六時中、旦那と一緒で家は事務所。

息抜きに始めたであろう洋裁家の祖母を使ったハンドメイドバッグのデザインと作成とネット販売。このネット販売も雑誌に載るほどの規模になりました。

オンもオフもない環境。

子供はというと勉強そっちのけでネットにのめり込んでいる。

正直なところ、鬱病になっても仕方がない環境だったんだろうなと大人になった今はわかります。

 

ある日突然、父に母が鬱病になったと言われました。でも私はピンとはきませんでした。

かれこれ10年以上前のこと、鬱病という単語が世間で出回って浸透しだしたころではないでしょうか。

鬱病というものがなんなのか、母が一体どんな病気でどんな薬を飲んでなぜ毎日寝てばかりなのか父は一切説明してくれませんでした。ただ「お前がネットをしている姿、勉強以外のことをしている姿を見ているのがストレス」と私が病原体のような扱いをされ、隙を見てネットをしようものなら「お前は思いやりがない」と言われました。

この辺りでもう、思いやりってなんなのかそもそも一体家で何が起こってるのか理解出来ず混乱しながら生活しか出来ませんでした。

母は次第にJWの集会にも行かなくなり家で突然ブチギレて暴れ倒す爆弾みたいな扱いになっていき、母本人も爆弾扱いにイラつきの無限地獄に陥りました。

私はというと家にいても誰も話をしてくれないし聞いてくれない、ネットの世界と漫画の世界にどっぷりとハマり、塾に通っていたのでテストは常に平均ちょい上ぐらいでしたが、家でやったり纏める提出物が皆無。成績も2と3の数字が乱舞する有様でした。

家事手伝いもほぼ一切しませんでした。たまに料理を手伝うぐらいはしましたがら反抗期だったからかよくわかりませんが、手を出すと負けというか、学校も塾も行っているのになぜそこまでしなきゃいけないんだというクソガキ心境でした。それもまた余計にストレスだったんでしょうね。

でも、自分の思った通りに私が動かない生活しないからストレスだったということでしょ?となんとなく昔から思っています。ろくに話しも聞かない話してもくれない、そんな親に対して信頼も信用することは難しいと思います。現に母は自分の思ったとおりに周りが動いてくれないといった内容の愚痴をこぼしていました。

 

中学から高校に上がってから、それは余計に酷くなりました。その頃には母の人格障害が発覚した、さらに母の状態は悪化というか激化し、ほぼ毎日家を飛び出して自殺未遂を起こしてパトカーで帰ってきたり、薬を大量に飲んで胃洗浄の為に救急車が毎夜家に来たり。

それが嫌で、家にいる時間をなるべく減らす為友達と遊んだりバイトをしたりしていました。

この時の友人が所謂ヤンチャ系ではなく本当、オタク系の落ち着いた子達だったのは救いだったと思います。男しかいなかったけど。

はっきり言って、そんな状態で精神は安定せず、徐々に学校に行けなくなりました。恐らく軽度のパニック障害を発症していたんだと思います。学校が近づくにつれ胸が苦しく、席に着いてクラスメイトがざわつき先生の声が聞こえる環境が無性にイライラして呼吸が浅く叫び声をあげたくなる衝動に駆られ続け、一限程度の時間も席に座っていられず、保健室に行って先生と話して泣くを繰り返していました。

親に相談しても嘘吐きで興味を自分に持たせたいだけ仮病を使うな学校に行けだけを繰り返され、結果、朝は学校のある時間は鞄に着替えを詰め込んで制服を着て学校とは反対方向にある繁華街で遊び、午後になったら反対方向の電車に乗って学校に行き友達と話してからバイトに行く。そんな生活をしていました。

結果的に単位ギリッギリ。

2年から3年に上がる時に体育の単位を落とし、温情として一週間放課後でダラダラした補修をして進級。

本来はバイト禁止でしたが、保健室の先生に事情を話してスクールカウンセラーの方から私のバイトを黙認してもらうようにお願いをしました。家から逃げたくて逃げたくて、唯一落ち着ける場所だから取り上げないでくれと。

 

母は母で自分が爆弾扱いされていることが不満で、家族からの当たり前の心配りが自分のご機嫌伺いをしていると疑心暗鬼で全部に当たり散らしていました。

休日のお昼に父が仕事で私と母だけで家に適当に食べられるものが無かったので、チャリを走らせてパン屋で適当なパンをいくつか買って帰り一緒に食べようと差し出すと

「私のご機嫌取りをするな!!!!」

それだけのことに激怒してパンを叩き潰して私に投げつけふて寝。そのパンから飛び出た中身が電気の傘に飛んでへばり付いたのを覚えています。

激昂する日も多かったですが穏やかな日もあり、その時は普通に話したりすることもありましたが、まあ、話している間に面倒くさくなるから無視がよくありましたが、まだブチ切れられるよりマシでした。

 

そんな日の中、私に初めて彼氏が出来ました。その日は母が落ち着いており、彼氏ができたことを話すとブチ切れ激昂。

「淫乱娘!!ドーナツ女!!!」

そんな感じの罵倒プラス罵倒メールを一晩かけて送り続けられましたが、一晩経つと落ち着き放置の方向に舵がきられました。

私は逃げるようにバイトにプラスして夜は彼氏の家に入り浸り、22時に帰宅して直ぐに寝る、土日はそれが昼間からといった生活になりました。

父は父で揉める原因が少なくなるならとその生活を黙認。全員が母に振り回されることに疲れ切って、ブチ切れ地雷が一つでも減るならばそれで良いとなっていました。

 

ほぼ毎日自殺騒ぎに怒鳴り声、車で1時間程かかる親戚と喧嘩して大暴れしたりしている家庭環境でよく暮らしてたなと今では思います。

軽度パニック障害らしい症状もありましたが、高校に入ってからバイトや彼氏の家という家の外という逃げ場が無ければ恐らくもっと私の精神をやられていた気がします。あと、「どうでもいい、面倒くさい」が私の性格の根底なせいか無駄に関わったりすることをしなかったのも今思うと良かったのかもしれません。

 

高校終わり頃はこんな感じでしたが、高校を卒業して専門学校に上がってから母の調子が良くなってくる代償に私の幼少期を潰したJWを捨て始めました。